僕は中学生の時に初めてバイトで
稼ぐ事を経験し、10代で家出をして
建設業鉄筋屋の住み込みで働いて来た。
ビーチで手を繋ぎデートをしてる人や、
キャンパスライフを送っている
同じ歳位の人達を見る度に
あの幸せをぶち壊したいと
思ってしまう位、心が荒れていた。
目の前から歩いてくる
カップルを睨みつけ
無視をされて屈辱を感じたものだ…笑
ダサい。ダサすぎる。。
当時の建設業はゴロツキの集まりだった。
それはそれは激しい世界
自らの命がもしかしたら今日、
現場の荒れくれ者のせいで
消えてしまうのではないかと
毎日、朝、家を出る度に両親に感謝し、
神に祈りを捧げるのが日課になっていた程だ。
今日も1日
生きて家に帰れますように…
当然の事ながら、
そんな環境で働いてる僕は
世間から中卒の不良家出少年という
レッテルを貼られまくってしまった。
そう言われてもしょうがない中途半端な奴だった。
「ゴミクズ!学歴の無いお前は
汚い、臭い、苦しい 3Kの仕事を
大人になってもひたすら頑張るしかない」
3Kは高身長、高学歴、高収入の事だと
思っていたが、マイナスの言葉も
あったのだという事を学んだ…
耳にタコができるほど言われた言葉だ。
いや、タコができる以前に、このタコが❗️
と、よく言われていたものだ。
僕の事をタコ呼びしている、その人こそ
まさにタコのような口をした人間だったが。
名前は滝山さん…惜しい……
惜しすぎる。あのタコ山め。
そしていつの日か、
自分自身に学歴が無い事、
そしてゴミ、クズと大人達から言われる事が
メガトン級のコンプレックスに
なってしまったのだ。
10代の時は、ひたすら
鉄筋屋の仕事に没頭した。
殴られ怒鳴られるのは当たり前。
痛いから仕事を必死で覚える。
仕事で見返してやろうと言う動機と共に、
現場で喧嘩になってしまった時に
腕力で勝つ為に、日々の筋トレは欠かさなかった。
おかげで僕の肉体はドラゴンボールの悟空の
ようになっていた。
しかし
クリリンと呼ばれてしまう。。
なんという事だ…
仕事は住み込みだったので
逃げることはできない環境で
親方や奥様、子供達と寝食を共にし
朝から晩まで、礼儀や、
義理人情を親方から叩き込まれた。
八王子から家出をした少年を、
初対面の時に拾ってくれた親方には
大きな恩を感じた。
親方
「おい小僧。住むところはあんのか?」
僕
「ない!」
親方
「今日から家に来い」
奥様と5歳と2歳の子供がいるのに、
どこの馬の骨かわからない不良家出少年を
住み込みさせるのは偉大である。
もう疎遠になってしまったが、
心から感謝を刻んでいる人だ。
どんなに理不尽な事でもグッと
堪えて耐え忍ぶ事を学んだ。
仕事ができない人間は意見すら
言う事ができない縦社会。
自分の正義を貫こうとぶつかりにいけば
コテンパンにされる。
何度、コテンパンにされた事か。
痛いなんてもんじゃない。気絶する。
一歩間違ったら本当に死ぬ。
そんな緊張感は常にマックスだった。
みんな、
超喧嘩が強い荒れくれ者達。
親方から
給料泥棒と言われる事が悔しくて
死ぬ気で仕事を覚えた。
長年職人をしている先輩達を実力で
ぶち抜く為には、質よりも量で勝負をして
身体にたたき込まなければ勝ち目はないと
ほとんど、昼休みも取らずに
誰もいない休憩中の現場で、ひたすら
仕事を覚える為に努力した。
いつか、圧倒的な仕事力で
偉そうなこいつらを全員見返してやる。
そして、ガンガン働き仕事を覚え
先輩達をぶち抜いていった。
少ない日当で、大きな成果を
出す事ができたと思っている。
この経験は大人になってから財産になっている事は間違いなく断言 できる。
数年間、逃げずに
住み込みで一生懸命頑張れたのは
親方への恩義も大きかったが、それ以上に強い、
働く明確な理由があったからだ。
それは、〜お袋への仕送りの為〜だった。
父親が中学の時に、
破産して親は離婚した。
僕は長男だった為、このまま実家にいても
甘えてしまう自分が嫌だった。
そんなある日、謎の夢を見る事になる。
地球が出てきてその前に、
ツルピカで白ひげがモサモサの
おじいさんが出てきて、僕に伊豆へ行けと
言ってきたのだ。
朝起きて僕はすぐ忘れない内に
紙に熱海と書いた。
当日は伊豆=熱海しかないと思い込んでた為、
僕は即決断して、その日の内に
全財産七万円と、荷物をリュックに沢山
詰めて支度を終え
お袋に一言、「出稼ぎに行ってくる」と
伝えて家を出てから一度も家に帰っていない。
世間的にも長男が家出した事が広がり
お袋にだいぶ迷惑をかけていた。
父親と離婚した後に長男が家出。
すごく申し訳ない気持ちも強かったが
家出をしてもしっかりと稼いだお金で
毎月仕送りを続ければ
お袋も、少しは楽になれると思った。
世間的にも、少し早い社会人として
長男は頑張ってると思われる事で
お袋も安心してくれる。
【毎月10万円】という仕送りは
大変な金額ではあったが数年間ずっと
送り続ける事ができたのは、
働く理由が明確だったからだと思う。
10代の頃の厳しい修行時代は
若いながらにして、
人生を深く考えさせられた。
人とは違う生き方をしてしまっている
中卒の自分を恨んだ事も沢山ある。
これから先の未来どんな自分に
なりたいのか、考えても答えなど
全く持って見えなかった。
なんの為に、何故、僕という人間が
今世紀この世に
誕生してしまったのだろうか?
僕がこの世に生まれて来た意味は
一体なんなんだろう?
そんな事も、
真剣に毎日考えながら仕事をしていた。
こんな現場の仕事だけで年をとって、
人生を終える事だけはやりたくない。
それはあまりにもカッコ悪い。
いつの日かこの経験が、何かの役に立ち
学歴なんて無くても
世の中で影響力を持つようなかっこいい
大人になりたいという、漠然とした理想、
みたいなものは描いていた。
あの時のメガトン級のコンプレックスは、
神様からのプレゼントだったんだと
振り返ると思う事ができる。
そして僕は厳しい修行時代を終え、
20歳の時に、東京に戻ってきて
13歳の時にアルバイトを
させてもらった親方の元で正式に
石屋の見習いとして弟子入りをする事になった。