いきなり塵肺宣告!お先真っ暗の中で覚悟を決めた石芸術人生

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

 

 
厳しい10代の修行時代を終え、
僕は家出から実家に帰ってきて
13歳の頃にアルバイトでお世話になった
石の親方の元で、見習いとして弟子入りをした。
 
 
 
鉄筋屋のように完成すると見えなくなってしまう仕事とは違い
最後の仕上げに石は使用される。
そして完成したらずっと残る事に仕事の意義を感じた。
 
 
そして
洗練された石工の加工技術を目の当たりにし
大きな感動を得た。
 
 
 
 
 
 
そして数十年、研鑽された
石工の親方達の技術に力には心底驚いた。
 
 
見た目はヨボヨボに見える爺様が、平気で
セメントを三体とか、担ぎ上げる程の腕力。
石工って凄い…
 
 
そして、とにかく固くクセのある
世界各国の石達を
 
 
消えてるタバコを加えながら
煙たそうな顔をして、
自由自在に砕いていくその技術
僕は心底魅力されていったのだ。
 
 
タバコ消えてますよ!などとは
決して口にしてはいけない
なんとも言えない洗練された空気感だった。
 
 
 
 
それ以上に、現場に行く度に出逢う
美しい石の数々に衝撃を受けたのだ。
 
 
世の中にこんなにも美しい石があったのかと
言葉には言い表せられない感動を得た。
 
 
そぅ。あの時、僕は
石の美しさにときめいてしまった。
 
 
 
 
初恋の時のようなトキメキ感。
僕と石との
トキメキメモリアルは始まっていた。
 
 
〜石でひらめいた瞬間〜
 
 
10代の頃、ゴミクズと言われて続けた中で
哲学をするようになった。
 
 
ゴミを正当化したくて、価値の追求を
始めたのかもしれない。
 
 
人間が価値の無いものはゴミやクズと
いうカテゴリーにあてはめられ
処分されている。クズはクズのままなのか
 
 
 
もし、ゴミとゴミを
組み合わせて新しい価値を生めたら
ゴミから新しい感動を生み出せるのでは
ないだろうか?
 
 
それがもしできたならば
僕自身がゴミだクズだと言われて来た事は
正当化できる。
 
 
クズ職人がクズを組み合わせて
感動を生めたら、凄いのではないか?
 
 
そんな事を日々の現場の中で
砕いた石クズを見ながらずっと考えていた。
 
 
一服の時は、いつもクズ石を手に持ち
見とれてていたので、職人の先輩達からは
心配されたものだ。
 
 
 
〜先輩。石って…
なんでこんな美しいんですかね?
俺、こいつにときめいている
 
 
〜え?お前、大丈夫か?〜
 
 
 
目の前にある廃材は、捨てられて
しまうものだが、
捨てるにはもったいない程
美しい輝きを放っている。
 
 
一つ一つ、
石種は同じでも世界に二つと
同じ石は存在しない事もトキめいた理由だ。
 
 
そんなある日
突然、ピカッとひらめきが走る。
 
 
頭の両サイドにピカッと光が…
 
 
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
この石の廃材で
絵を描いてみたらどうだろか?
∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞
 
 
早速廃材を家に持ち帰り
削ってみるが、技術が足りず加工ができない。
それから技術を磨く事に力を注ぎ
 
 
不覚にも2年程が経過してしまったが
 
ある日の夜中、
捨てられるピンクの砂岩の廃材で
一輪の花を表現する事ができたのだ。
 
 
 
 
 
 
あの時の感動は今でもハッキリと覚えている。
 
 
生まれて初めて、大号泣を経験した。
 
 
後にも先にも、あれほど涙が鼻水と共に
滝のように口に入ってくる大号泣は
今後の人生でも無いと思う。
 
 
初めて、自分自身の存在意義、
使命みたいな事を発見できた瞬間だ。
 
 
ただこの時は
新しい価値を創造できたことに対する
自分への喜びだけで十分だった。
 
 
仕事も順調に覚え、23歳の時に結婚して子供が生まれ
いよいよ石工として独立の準備を始めた。
独立目標は24歳を設定した。
 
 
この時はまさかのまさか
僕が、芸術の道を歩み始めるなど
1ミリも思っていなかった。
 
 
 
挨拶まわりも済ませ
独立するぞと、意気込んでいた矢先に
 
 
突然親方から意味深な言葉を言われる。
 
 
「お前一年程、空咳してるから独立前に
一度病院に行ってこい」
 
 
身体はバリバリ元気で仕事もMax働けていた。
確かに、空咳は良く出ていたが
全く気にはならなかったので、病院など
行くつもりは毛頭なかったのだが
 
 
親方からきつく言われ
渋々、地元の病院に行って検査を受けた。
 
 
すぐ終わる診断かと思ったらそのまま精密検査をすることになり
しばらく待たされた。
 
 
 
・・・・これは、もしかしたらやばいのか?
 
 
 
検査結果に呼ばれる。
一連の流れに、嫌な予感が。。。
 
 
 
ドクター
お母様、奥様同席のもと話を
させてください」
 
 
やばいじゃん・・・
 
 
 
 
「無理です。おかんと嫁には
絶対に迷惑はかけられません。
一体、なんなんですか?ヤバイ系ですか?」
 
 
 
ドクター
塵肺です。このまま現場に出たら
確実に40代で死にます。
今すぐ現場職人の道は諦めてください
 
 
。。。。。
 
 
脳天に稲妻が走った。
なんてこった……
 
 
こんな運命を辿る為にこの世に俺は
誕生してしまったのか?
 
 
お先真っ暗になるというのは
こういう事を言うのか…
 
 
元気Max!肩で風を切りながら
病院に入った男は数時間後、
病院を出た時には既に廃人になっていたのだ
その変わりようといったら浦島太郎なみだ。
 
 
 
それにしても
ドクターの言葉のインパクトは相当なものだった。
 
 
 
〜病は氣から〜という言葉が
本当に存在した事を知る。
 
 
 
あれだけ元気全開だった僕の身体は
一瞬にして、活力が失われ
病人という姿にみるみる変化を遂げた。
 
 
 
食事が喉を通らなくなり、咳は激しさを増し
60キロあった僕の体重は、あっという間に
筋肉と共に落ちていき40キロになってしまった。
ガリガリの骨と皮……
 
 
しばらく寝たきりになった。
 
 
 
 
 
人生終わった。。。
 
 
この時、長女は一歳。
流石に滅入った…
 
 
日に日に、【自殺】というキーワードすら
考えてしまう程、精神的にも追い込まれていった。
 
 
挙句の果てには
〜首吊り自殺の練習〜までしてしまった程である。笑
 
 
※自殺未遂ではない。あくまで、
どうやったら苦しまずに死ねるか、ドアノブで練習をしていただけだ。
 
 
 
半年程が経過し、ずっと死ぬ方法を模索していた。
 
 
首吊りは、練習の結果苦しむ事が理解できたので、
違う方法を模索していた。
 
 
家の貯金も底をつき借金生活に突入したので、
八王子にある長房団地という
市営団地10500円という破格の団地に引っ越した。
 
 
 
 
 
 
そして、その団地の家賃すら
払えずに、役所の人間から支払い催促を
される程の経済状況だった。
 
 
 
 
ボットン便所のトイレで、真剣に死を考える日々。
 
 
そんなある日、こんな状況のなかで自分が
お金を生み出す為に何ができるのか
考えるきっかけが生まれた。
 
 
 
その答えを出すのにそれほど時間はかからなかった。
紙に鉛筆で一言。
 
 
ーーーーーー
石で絵を作る=石の芸術家?
ーーーーーー
 
 
 
唯一、生きる為に残された道は
石で絵を作る職人、芸術家という職業だったと
いうわけである。
 
 
 
僕は美大も芸大も出ていない。
 
 
果たしてそんな人間が芸術家などに
なれるのだろうか?
 
 
そんな悩みは瞬間で吹き飛ぶ
石の芸術家を選ばない決断をしたら
死ぬしか選択枠がなかったからだ。
 
 
覚悟を決めた。
 
 
 
芸術家で勝負をして、ダメだったら
石砕きは辞めて、一発脳天にトンカチで
己を華麗に砕き、この世からおさらばしよう。
 
 
 
 
 
 
この時24歳、所帯持ち。子供一人。
収入ゼロ、借金あり。病人。
10500円ボットン便所の団地で
石の芸術家は誕生したのだ。
 
 
絶望の中で見つけた一点の小さな光。
 
 
ここから芸術人生を歩み始める事になった。
 
 
石から無限大の可能性に挑戦!というテーマを掲げ
 
 
 
僕は自らの人生を歩み始めた。
この経験が大きな人生の転機になったのだ。
 
 
逆境の中にはそれと同等かそれ以上のチャンスがある。
 
 
 
 

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

SNSでもご購読できます。

コメントを残す

*